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八正道:仏教:開運金華

八正道は智慧から始まる聖なる道です。仏教の最も根本的な実修法です。:八正道:仏教:開運金華

八正道

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先ず、智慧があり、それに随い、正しい見方が生じ、それに随い、正しい思いが生じ、正しい言葉が生じ、正しい行為が生じ、正しい生き方が生じ、正しい努力が生じ、正しい専念が生じ、正しい精神集中が生じる。

欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅し尽くして、煩悩を捨てきることによって、正見(正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を修習するのである。

正見とは

正見とは、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものを見る者には、この世間には無というものはない。また有というものはない。

聖なる弟子は、その心の依処に執着し、こだわるところがなく、
ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、
苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。

ここに智が生ずる。これが正見である。

正見(四諦・縁起の法)

正見とは、自らの身心において、苦を知り、苦の生起を知り、苦の滅尽をしり、苦の滅尽に至る道を知ることである。

無常、苦、空、非我(無我)、無我所、に基いて、正しく見て、執着と不満と妄想を離れる。
この世の苦悩を知り、その苦悩の原因を知り、苦悩の止滅を知り、正しい道を知ることである。

苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽に至る道を知ることである。

四聖諦、縁起の法に基いて正しく見て正しく理解することである。
あらゆる事物を四聖諦、十二因縁の智慧によって、思惟することによって、善悪を分別し、それに従って世の中を観察することである。

正思(戒律・意密 : 四諦・縁起の法)

正思とは、迷いの世間を離れたい、悪意を離れたい、他者を害することを離れたいと、思うことである。

貪欲と、怒りと、愚痴、から離れている考えである。
迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することが無いようにと思うことである。執着と不満と妄想を離れる。

正語(戒律・口密)

正語とは、偽りの言葉を離れ、中傷の言葉を離れ、悪口の言葉を離れ、無駄な言葉を離れることである。

正業(戒律・身密)

正業とは、殺生を離れ、窃盗を離れ、邪淫を離れることである。

正命(出家・僧侶)

正命とは、邪な生き方を離れ、正しい出家の法を護って生きることである。

正精進(四正勤・四如意足)

正精進とは、
身口意に悪業を生じないように意志を起し、繰り返し、実行する。

身口意の悪業を断滅するように意志を起し、繰り返し、実行する。

身口意に善業を生じるように 意志を起し、繰り返し、実行する。

身口意の善業を安定するように意志を起し、繰り返し、実行する。

正念(四念処・七覚支)

正念とは、
我身において身を、熱心に気を付け、心をこめて、こまかく観察する。

我受において受を、熱心に気を付け、心をこめて、こまかく観察する。

我心において心を、熱心に気を付け、心をこめて、こまかく観察する。

我法において法を、熱心に気を付け、心をこめて、こまかく観察する。

それらによって、世間の貪りと憂いとを調伏して住する。

正念とは、身、心や法を観察して、考え深く住し、世間に対する貪欲と憂いとを制御することである。

正智とは、息の出入りにも自覚し、前後を見るにも自覚し、腕の屈伸にも自覚し、服を着るにも脱ぐにも、ものを持つにも、食べ、噛み、飲み、味わうにも、大小便にも、歩き、止まり、聞き、目覚め、語り、黙っているときも自覚していることである。
何時でも自覚し、何処でも自覚し、何をするにも自覚していることである。

此処に己を灯明とし、己を拠所として、他を拠所とせず、法を灯明とし、法を拠所として、他を拠所とせずに住せ。

正定(四禅八定・七覚支)

正定とは、
対象に心を定めながら、他のもの(欲望・不善)から離れることに喜びと楽しみを感じる、初禅を具足して住する。

対象に定めた心も静まり、内心清らかになり、心は一向になり、対象に心を定める必要がなくなり、只、三昧より生じた喜び楽しみを感じる、第二禅を具足して住する。

喜びを離れ、内心平等にして執着なく、只、念と慧があり、楽しみを感じる。第三禅を具足して住する。(捨あり、念ありて、楽住するという)

楽と苦を断じて、すでに喜びと憂いを滅しているので、不苦不楽にして、只、捨あり、念ありて、清浄である。第四禅を具足して住する。

如来住・梵住(如来の精神に安住する)

如来は、なにも考えず、なにも感じないで、心が無相の三昧に入っている時、そのようなときこそ、一番安らかである。

だから、己を洲とし、己を依処として、他人を依処とせず、法を洲とし、法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。

それはどのようにするのか
我身において、熱心に、正念、正知にしてその身を観じ、貪欲より起こるこの世の憂いを調伏して住する。

我受(感覚)において、熱心に、正念、正知にしてその受を観じ、我心において、熱心に、正念、正知にしてその心を観じ、

我法において、熱心に、正念、正知にしてその法を観じ、貪欲より起こるこの世の憂いを調伏して住するのである。

煩悩の滅尽

煩悩の滅尽
滅尽の条件は、解脱である。
解脱の条件は、離貪である。
離貪の条件は、厭離である。
厭離の条件は、如実智見である。
如実智見の条件は、三昧(精神集中)である。
三昧の条件は、楽(楽しい)である。
楽の条件は、軽安(身心の安らぎ)である。
軽安の条件は、喜(喜び)である。
喜の条件は、悦(快感)である。
悦の条件は、信である。
信の条件は、苦である。

無明を余すところなく滅し尽くせば、それによってわが内に苦楽を生じる行為(言葉・意識)はなくなる。

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