七覚支
仏陀曰く「修行者が仏の説に随って解脱の修行をしようと思い立ったら、
まず、念覚分を習う。
念覚分を修め終わったら、選択分別を思惟する。その時択法覚分を習修する。
選択分別して思惟し終わったら、精進努力する精進覚分を習修するのである。
精進努力して精進覚分が終われば、歓喜が生じ、諸々の欲望を離れ喜覚分を習修する。
喜覚分が満足して身心が猗息すれば猗息覚分を習修する。
猗息覚分が満足し終わったら愛楽する。愛楽し終わって心が定まれば定覚分を習修する。
定覚分が満足し終わったら欲望は滅し、捨心が生じて、捨覚分を習修するのである。
念覚支
自分と外界について覚る。いわゆる四念処の思惟である。四念処
四念処を実修すれば、阿羅漢の完全智が得られるか、執着が残っても、この生存には戻らない不還が得られる。
四とは何か
1)此処に身体に於いて身体を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。
2)此処に感受(楽、苦、不苦不楽)に於いて感受(楽、苦、不苦不楽)を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。
3)此処に心に於いて心を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。
4)此処に法に於いて法を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。
択法覚支
四念処を修行すれば、善法と不善法を選択分別し択法を覚る。これは、善悪を見極めて善のみを選択して実修することらしい。
精進覚支
択法覚支によって善法不善法の分別を思惟し、不善法を断じ、善法を養生する。いわゆる四正断である。
四正勤(断断、律儀断、随護断、修断) 不善を断ち 善を起す
1)断断。すでに生じている悪(貪・瞋・痴)を滅する努力
2)律儀断。新たな悪(貪・瞋・痴)を生じないようにする努力
3)修断。未だ生じていない善(不貪・不瞋・不痴)を生じさせる努力
4 随護断。すでに生じている善(不貪・不瞋・不痴)を増大させる努力
喜覚支
四正断によって歓喜が生じ、喜びを覚る。軽安覚支
喜覚支を覚れば、身の安楽(快感)と心の安楽(快感)が生じる。身の安楽を修し、心の安楽を修す。定覚支
軽安覚支によって、心定まって「安楽」が生じ、定覚支を修行する。いわゆる四禅を思惟する。
善い行いと考えに没頭するように、心を訓練することである。
感官を守り正念正智にして満足を知り、心を安定させること、執着と不満と妄想の無自覚を離れる。あらゆる欲望を離れ、あらゆる善くないことを離れ、まだ対象に心を引かれながらも、それから離れることに喜びと楽しみを感じる状態に到達する。これを初禅を実現して住するという。
だが、やがて、その対象に引かれる心も静まり、想いは清らかにして心は統一して、何物にも心を引かれることなく、只三昧より生じた喜びと楽しみのみ状態に至る。これを第二禅を実現して住するという。
さらに、その喜びをも離れ、内心平等にして執着無く、只念があり、智恵があり、楽しみがあるのみの状態に至る。これを、聖者達は、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を実現して住するという。
さらにまた、楽をも苦をも断ずる。先に、既に喜びも憂いも滅したのであるから、今や、不苦、不楽にして、只、捨あり、念ありて、清浄なる状態に至る。これを第四禅を実現して住するというのである
捨覚支
定覚支が満足して、欲望を滅し、断界、無欲界、滅界に心をとどめる。平等に、全てを平等に見て執着しないこと、自分も他人も平等、生も死も平等らしいです。
七覚支とは解脱への道筋の七段階である
先ず、「四念処」を思惟して本当の悪とは何か、本当の善とは何かを理解する(念覚支)。次に、善悪を分別(択法覚支)する。
分別したら悪を捨て、善を取ることに努力をする(精進覚支)。
そして、悪を捨てたことに喜びを感ずる(喜覚支)。
悪不善の法を捨てることによって、楽が生じ心が安定する(軽安覚支)。
心が安定することによって精神が統一される(定覚支)。
あとは欲悪不善の法を捨て(捨覚支)、再び汚されないようにする。これが解脱の道筋である。 スポンサーリンク
「仏教」No.10:「覚支 覚り 覚醒」[2008/07/03 03:58:21]
先ず、智慧があり、それに随い、正しい見方が生じ、それに随い、正しい思いが生じ、正しい言葉が生じ、正しい行為が生じ、正しい生き方が生じ、正しい努力が生じ、正しい専念が生じ、正しい精神集中が生じる。 欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅し尽くし・・・
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「仏教」No.11:「八正道 中道 正しい道」[2008/07/04 22:03:57]
色は無常(変化生滅する)であると観なさい。このように観ることを正観するという。 正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。 喜貪が尽きた者を心解脱するという。 同様に、受・想・行・識は無常であると観なさい。このように観ることを正・・・
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「仏教」No.12:「無常 苦 空 無我」[2008/07/05 23:08:24]
独りで、結跏趺坐して坐り、身体を真っ直ぐに伸して、念を前方に集中する。(安般念) 世間に対する執着を捨て、執着を離れた心を持って住する。執着から心を浄化する。 悪意と憎しみを捨て、悪意のない心を持って住する。 愛と善意によって悪意から心を浄・・・
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「仏教」No.13:「瞑想 仏陀 仏教 禅 禅定」[2008/07/07 14:13:58]
手放しの法則と言われている「セドナ・メソッド」は仏教的瞑想法の一種のように感じています。 「セドナ・メソッド」の発祥まで詳しく調べたわけではありませんが、何らかの仏教的影響を受けているように思います。 特に感情の解放を主においているのは、仏・・・
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「仏教」No.14:「手放しの法則 セドナ・メソッド 仏教」[2012/07/26 00:37:20]
忍耐、堪忍は最上の苦行であり、涅槃は最勝である。 そしらず、害わず、戒律を守り、食事の節度を知り、一人離れて坐臥し、高度の思索に専念する。 これが諸仏の教えである。 戒 戒とは 身に於いて、一、暴力を離れて、二、与えられないものを盗ることを・・・
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「仏教」No.1:「戒 定 慧」[2008/05/09 10:28:45]
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「仏教」No.2:「聖諦 四聖諦 四諦」[2008/05/10 10:37:17]
思惟するときは、「これは苦なり」と思惟せよ。 「これは苦の生起なり」と思惟せよ。 「これは苦の滅尽なり」と思惟せよ。 「これは苦の滅尽に至る道なり」と思惟するがよい。 それらの思惟は、よく利益をもたらし、梵行の出発点となり、厭離・離貪・滅尽・・・
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「仏教」No.3:「正思 思惟 考え方」[2008/05/10 12:43:55]
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「仏教」No.4:「釈尊 解脱 目標」[2008/06/10 12:52:20]