覚支 覚り 覚醒

七覚支:仏教:開運金華

七覚支とは仏教で覚りを得るための七つのことがらといわれています。七覚支は四念処から順じ進むようです:七覚支:仏教:開運金華

七覚支

仏陀曰く「修行者が仏の説に随って解脱の修行をしようと思い立ったら、

まず、念覚分を習う。

念覚分を修め終わったら、選択分別を思惟する。その時択法覚分を習修する。

選択分別して思惟し終わったら、精進努力する精進覚分を習修するのである。

精進努力して精進覚分が終われば、歓喜が生じ、諸々の欲望を離れ喜覚分を習修する。

喜覚分が満足して身心が猗息すれば猗息覚分を習修する。

猗息覚分が満足し終わったら愛楽する。愛楽し終わって心が定まれば定覚分を習修する。

定覚分が満足し終わったら欲望は滅し、捨心が生じて、捨覚分を習修するのである。

念覚支

自分と外界について覚る。いわゆる四念処の思惟である。

四念処
四念処を実修すれば、阿羅漢の完全智が得られるか、執着が残っても、この生存には戻らない不還が得られる。

四とは何か
1)此処に身体に於いて身体を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。

2)此処に感受(楽、苦、不苦不楽)に於いて感受(楽、苦、不苦不楽)を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。

3)此処に心に於いて心を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。

4)此処に法に於いて法を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。

択法覚支

四念処を修行すれば、善法と不善法を選択分別し択法を覚る。

これは、善悪を見極めて善のみを選択して実修することらしい。

精進覚支

択法覚支によって善法不善法の分別を思惟し、不善法を断じ、善法を養生する。
いわゆる四正断である。

四正勤(断断、律儀断、随護断、修断) 不善を断ち 善を起す
1)断断。すでに生じている悪(貪・瞋・痴)を滅する努力
2)律儀断。新たな悪(貪・瞋・痴)を生じないようにする努力
3)修断。未だ生じていない善(不貪・不瞋・不痴)を生じさせる努力
4 随護断。すでに生じている善(不貪・不瞋・不痴)を増大させる努力

喜覚支

四正断によって歓喜が生じ、喜びを覚る。

軽安覚支

喜覚支を覚れば、身の安楽(快感)と心の安楽(快感)が生じる。身の安楽を修し、心の安楽を修す。

定覚支

軽安覚支によって、心定まって「安楽」が生じ、定覚支を修行する。
いわゆる四禅を思惟する。

善い行いと考えに没頭するように、心を訓練することである。
感官を守り正念正智にして満足を知り、心を安定させること、執着と不満と妄想の無自覚を離れる。あらゆる欲望を離れ、あらゆる善くないことを離れ、まだ対象に心を引かれながらも、それから離れることに喜びと楽しみを感じる状態に到達する。これを初禅を実現して住するという。

だが、やがて、その対象に引かれる心も静まり、想いは清らかにして心は統一して、何物にも心を引かれることなく、只三昧より生じた喜びと楽しみのみ状態に至る。これを第二禅を実現して住するという。

さらに、その喜びをも離れ、内心平等にして執着無く、只念があり、智恵があり、楽しみがあるのみの状態に至る。これを、聖者達は、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を実現して住するという。

さらにまた、楽をも苦をも断ずる。先に、既に喜びも憂いも滅したのであるから、今や、不苦、不楽にして、只、捨あり、念ありて、清浄なる状態に至る。これを第四禅を実現して住するというのである

捨覚支

定覚支が満足して、欲望を滅し、断界、無欲界、滅界に心をとどめる。

平等に、全てを平等に見て執着しないこと、自分も他人も平等、生も死も平等らしいです。

七覚支とは解脱への道筋の七段階である

先ず、「四念処」を思惟して本当の悪とは何か、本当の善とは何かを理解する(念覚支)。

次に、善悪を分別(択法覚支)する。

分別したら悪を捨て、善を取ることに努力をする(精進覚支)。

そして、悪を捨てたことに喜びを感ずる(喜覚支)。

悪不善の法を捨てることによって、楽が生じ心が安定する(軽安覚支)。

心が安定することによって精神が統一される(定覚支)。

あとは欲悪不善の法を捨て(捨覚支)、再び汚されないようにする。これが解脱の道筋である。

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