ありのままに観る
スポンサーリンク色は無常(変化生滅する)であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。 喜貪が尽きた者を心解脱するという。
同様に、受・想・行・識は無常であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。 喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。
このように、心解脱した者は、もし自らの本性を知りたいと思えば、 自らの本性を理解することができるであろう。 そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、
もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。
色とは肉体のこと。肉体は、生じ、老い、病み、死ぬもので、すなわち無常のものである。
私達が、この肉体を常と錯覚する。しかし実際は、肉体に実体はなく、変化し続ける無常のものであり、錯覚と現実のギャップに私達は苦しむのである。
肉体は無常であるという見方は、正観であり、自己を苦しみから解放する。受とは感覚のこと、想とはイメージのこと、行とは意志のこと、識とは識別のこと。同様に、感覚、イメージ、意志、識別についても、“無常である”と正見解を持てば、自己を苦しみから解放する。
苦悩の原因を観る:ありのままに観て苦悩の生起を知る
色は苦(思い通りにならない)であると観なさい。このように観ることを正観するという。正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するという。
同じように、受・想・行・識は苦であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。
このように、心解脱した者は、もし自らの本性を知りたいと思えば、自らの本性を理解することができるであろう。
そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。
楽とは、自分の思い通りになる状態である。
苦とは、矛盾した状態、自分の思い通りにならない状態である。
空(夢幻のようなもの)
色は空であると観なさい。このように観ることを正観するという。正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するという。
同様に、受・想・行・識は空であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。
このように、心解脱した者は、もし自らの本性を知りたいと思えば、自らの本性を理解することができるであろう。
そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。
空とは、夢幻(幻影)のようなもである。実体の無いもののことである。
無常・苦・無我(非我)
全ては、無常・苦・無我(非我)なるものであるから、それを知り理解して、厭離・離貪・解脱に励みなさい。眼(耳鼻舌身意)は無常であると、知り、見る者には、無智は消滅し、智慧が生じる。
色(声香味触法)は無常であると、知り、見る者には、無智は消滅し、智慧が生じる。
六処と六境の接触によって生じる受(感覚)(苦・楽・不苦不楽)は無常であると知り、見る者には、無智が消滅し、智慧が生じる。
無我(非我:私ではない、私のものではない)
色は無我であると観なさい。このように観ることを正観するという。正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するという。
同様に、受・想・行・識は無我であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。
このように、心解脱した者は、もし自らの本性を知りたいと思えば、自らの本性を理解することができるであろう。 そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。
無我・非我とは、私ではない、私のものではないということである。
---
無常・苦・空・無我の真理にしたがって、正見、正思がある。色(受・想・行・識)において正思惟し、色は無常であるということをありのままに知りなさい。
色(受・想・行・識)において知らず、明らかにせず、断ち切らず、欲から離れないならば、苦を断ち切らず、欲から離れないならば、苦を断ち切ることはできない。
色(受・想・行・識)において知り、明らかにし、断ち切って、欲から離れるならば、必ず苦を断ち切ることができるであろう。
“知らず”とは、正しい見解がないということであり、“明らかにせず”とは、正しい思索がないということである。
正見がなく、閉塞した世界観に囚われている状態が“無智”である。
正思惟によって、世の無常、苦、空、無我を実感した状態が“智慧”である。
過去や未来の色(受・想・行・識)は無常(苦・空・無我)である、まして、現在の色(受・想・行・識)は言うまでもない。
聖なる弟子よ、このように観る者は、過去の色を顧みず、未来の色を喜ばず、 現在の色において厭離して正しく滅尽に向かおうとするのである。
色(受・想・行・識)は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは無我である。無我であるものは我処ではない。このように観ることを真実に正観するという。
聖なる弟子よ、このように観る者は、色を厭い、受・想・行・識を厭う。厭うからそれを願わない。願わないから解脱を得て、解脱する者には真実の智慧が生じる。そして私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。
このように観る者は、色において解脱し、受・想・行・識において解脱する。これらは生・老・病・死・憂・悲・苦・悩から解脱すると私は説くのである。
すなわち、自分の肉体・外界・自分の心は苦しみを造る以外何も無いので、そこから離れなさいと言っているのである。
仏陀や仏の弟子達はなぜ家族や家や財産を捨てて乞食をしているのだろうか。それは「欲望と愛着から逃れるため」である。
無常・苦・空・無我(非我)は現生的な法(実際に確認できる法)
今此処で誰にでも確認できる方法とは、眼(耳鼻舌身意)により色(声香味触法)を見ると、色を感知し、色に対する貪りを経験する。また、「私に色(声香味触法)に対する貪りがある」「貪りを持っている」と自ら気付くのである。この現生的な法は、即時的で、「自分で見ろ」と示し、よく涅槃に導くものであるから、智者の知るべき法であるというのである。
凡夫は、苦なる受に触れられると、嘆き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱する。彼は二重の受を感じるのである。それは、身における受と、心における受とである。
また、苦なる受に触れられると、怒りを感じ、苦なる受に対して怒りを感じると、眠れる怒りの素質が彼を捉える。
また、苦なる受に触れられると、欲楽を求める。凡夫は欲楽のほかには、受苦から逃れる方途を知らないからである。欲楽を求めると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。
苦でも楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることになる。
彼は、それらの受の生起も滅尽も、その味わいも、禍も、あるいは、それからの脱出法も知らないのである。 スポンサーリンク
「仏教」No.12:「無常 苦 空 無我」[2008/07/05 23:08:24]
独りで、結跏趺坐して坐り、身体を真っ直ぐに伸して、念を前方に集中する。(安般念) 世間に対する執着を捨て、執着を離れた心を持って住する。執着から心を浄化する。 悪意と憎しみを捨て、悪意のない心を持って住する。 愛と善意によって悪意から心を浄・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.13:「瞑想 仏陀 仏教 禅 禅定」[2008/07/07 14:13:58]
手放しの法則と言われている「セドナ・メソッド」は仏教的瞑想法の一種のように感じています。 「セドナ・メソッド」の発祥まで詳しく調べたわけではありませんが、何らかの仏教的影響を受けているように思います。 特に感情の解放を主においているのは、仏・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.14:「手放しの法則 セドナ・メソッド 仏教」[2012/07/26 00:37:20]
忍耐、堪忍は最上の苦行であり、涅槃は最勝である。 そしらず、害わず、戒律を守り、食事の節度を知り、一人離れて坐臥し、高度の思索に専念する。 これが諸仏の教えである。 戒 戒とは 身に於いて、一、暴力を離れて、二、与えられないものを盗ることを・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.1:「戒 定 慧」[2008/05/09 10:28:45]
比丘たちよ、心静かに思索に努めよ。静かに思索するものは在るがままに了知する。 何を在るがままに了知するのであろうか、 「これは苦なり」と在るがままに了知する。 「これは苦の生起である」と在るがままに了知する。 「これは苦の滅尽なり」と在るが・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.2:「聖諦 四聖諦 四諦」[2008/05/10 10:37:17]
思惟するときは、「これは苦なり」と思惟せよ。 「これは苦の生起なり」と思惟せよ。 「これは苦の滅尽なり」と思惟せよ。 「これは苦の滅尽に至る道なり」と思惟するがよい。 それらの思惟は、よく利益をもたらし、梵行の出発点となり、厭離・離貪・滅尽・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.3:「正思 思惟 考え方」[2008/05/10 12:43:55]
釈尊にとって、大問題であったのは、生死の苦とこの世界からの解放、つまり出離(解脱)であった。 縁起とは、苦の縁て起る原因を追究することである。 「これあるとき彼あり」「これ生ずれば彼生ず」 「これ無きとき彼無く」「これ滅すれば彼滅す」 これ・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.4:「釈尊 解脱 目標」[2008/06/10 12:52:20]
老死苦悩、生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識、行、無明。 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死苦悩。 無明とは 無自覚 苦についての無智・苦の生起についての無智・苦の滅尽についての無智・苦の滅尽に至る道についての無智 ・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.5:「縁起 えんぎ」[2008/06/11 02:10:11]
四念処とは 四念処を実修すれば、阿羅漢の完全智が得られるか、執着が残っても、この生存には戻らない不還が得られる。 四とは何か 此処に身体に於いて身体を観察して、熱心に正智正念にして、世間に対する貪欲と憂いとを制御する。 此処に感受(楽、苦、・・・
≫ ≫ 続きを見る
≫ ≫ 続きを見る
「仏教」No.6:「念処 四念処 観察」[2008/06/14 19:25:43]