縁起の法(十二縁起の法)
老死苦悩、生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識、行、無明。
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死苦悩。
無明とは
無自覚 苦についての無智・苦の生起についての無智・苦の滅尽についての無智・苦の滅尽に至る道についての無智
行とは
意志の動き 身口意における意志の動き
識とは
識別作用 眼耳鼻舌身意における識別する作用
名色とは
五蘊 受(感覚)・想(表象)・思(思惟)・触(接触)・作意(意志) 四大種(地・水・火・風)およびそれによってなる物
六処とは
六根六境によってなる認識 眼耳鼻舌身意の認識
触とは
接触 眼耳鼻舌身意による接触
受とは
感覚 眼耳鼻舌身意の接触による感覚
愛とは
渇愛 物(色)・声・香・味・感触・法に対する渇愛
取とは
執着 欲・見(見解)・戒(戒律)・我に対する執着
有とは
存在 欲界・色界・無色界における存在
生とは
生れてくること 生きていること
老死とは
年老いて死ぬ苦悩
もし我々が、何事をも思わず、何事をも企てず、何事をも案じることがなければ、識の存在する条件とはならない。
条件がないので、識は存続することができないのであり、存続し増長することがないので、未来に再び有を生じることがない。
新しい有を生じることがないので、老死も憂悲苦悩も生じることがない。
これが全ての苦の滅する所以である。
患観 「これはいけないぞ」と観る
患観・「これはいけないぞ」と観る執着しているものを、「これはいけないぞ」と観ていると、その人は、愛着の念が滅する。
愛が滅すると取が滅する。有・生・老死
これが全ての苦の滅する所以である。
繋縛するものを、「これはいけないぞ」と観る。
見ること、聞くことについて、「これは危ないぞ」と観ていると、そこに愛が滅する。
愛が滅すると取が滅する。有・生・老死
これが全ての苦の滅する所以である。
この心とも呼ばれ、意とも呼ばれ、識とも呼ばれるものは、日ごと夜ごと転変して、生じては滅するものであるから、
弟子たちは、縁起を整然と思いめぐらすのである。「これがあるからこれがある」「これが生ずればこれが生じる」
縁起(生起)
縁起(生起)私(仏陀)はこのように考えた、「何があるから(老死)があるのか」「何に縁って(老死)があるのか」
その時、正しい考え方によって、智慧による悟りが生れてきた。「(生)があるから(老死)がある」「(生)に縁って(老死)がある」と。
(老死、生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識)順次進む。
この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、老いてはまた生れ、衰えては死に、死んではまた再生するのである。
つまり、名色によって識があるのであり、識によって名色があるのである。
(識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)順次進む。
これが全ての苦の集積のよりてなる所以である。これが生起であると。
今まで聞いたことがないことにおいて、眼を開き、智を生じ、慧を生じ、明を生じ、光を生じた。
縁滅(滅尽)
縁滅(滅尽)私(仏陀)はこのように考えた、「何がなければ(老死)がないのか」「何を滅すれば(老死)滅するのか」
その時、正しい考え方によって、智慧による悟りが生れてきた。「(生)なければ(老死)がない」「(生)を滅すれば(老死)も滅する」と。
(老死、生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識)順次進む。
これが全ての苦の集積のよりて滅する所以である。これが滅(滅尽)である。
内なる心の動きを省察する(内触法)
内なる心の動きを省察する(内触法)世間の老死等の様々な苦は、何を因とし、何に縁って来たり、何に縁って生じ、何に縁って起こるだろうか。
「何があるから老死(苦悩)がるのか」「何がなければ老死(苦悩)はないのか」
我内なる心の動きを省察して、このように知る「これらの苦は、取(執着)を因とし、取に縁って来たり、取に縁って生じ、取に縁って起こる」
「取があるから老死(苦悩)がある」「取がなければ老死(苦悩)はない」と。
このように、老死を知り、老死の生起を知り、老死の滅尽を知り、老死の滅尽に至る道を知っているのである。これを法にかなって行ずるというのである。
また、正しい苦の滅尽、老死の滅尽にしたがって行ずるという。
(老死、生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識)順次進む。 スポンサーリンク
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